イームズ夫妻のプロダクト

イームズ夫妻が世に送り出したモノを語り出したらキリがない。それ程、私の人生とは長い付き合いになります。

最初の出会いは赤いナウガハイドが張られた日本規格のサイドシェル。調布の古いマンションで使われていない椅子を譲り受けました。目黒通りが花開く少し前の事だったと思います。

1990年後半からローレイダーを開くまで私はリサイクル屋周りを生業とします。そこで多くのイームズ夫妻のデザインと出会います。たしか、記憶が定かなら2000年問題とやらで外資のオフィスが一旦日本を離れるので、大量の渡来品が世に放出されていました。アルミナムチェアを100脚単位で購入したりしました。肘なしが4,000円、肘ありが8,000円とか信じられない時代です。ヤフオクで50,000円でバンバン売れた時代です。その売上で私はローレイダーをオープンします。

ローレイダーでは捻くれ者の私はイームズブームに乗っかる事なく、チャーナーチェアや北欧の椅子を扱うのでこの頃はイームズはスルーでした。

私にもう一度、イームズ夫妻の素晴らしさを教えてくれたのは目黒美術館で2005年に開催された 『チャールズ&レイ・イームズ ― 創造の遺産』を見てからです。

 

この展示会はとんでもない展示会でほぼ全てのプロダクトから試作品、映像作品まで余す事なく展示されていました。その中で私はレイが使っていたESU400に虜になりました。黒いベースなんてあるんだ、引き締まってとてつもなくカッコよく見えたそのESUは今でも私のベスト1のヴィンテージ家具だと思います。2時間位の滞在を会期中に何度したか忘れてしまいましたが、通い詰めました。

運命はやって来ました。会社を設立するにあたり銀行から融資が出ました。その翌日に行われたRAGOで私は2本のESUを落札します。後にコネクトで販売をしてしまうのですが、一番後悔した商品かもしれません。

酒匂川沿いの家でまず使います。2階にあった我が家に引き出しやディンプルウッドの扉を外して一人で抱えて運んだ思い出があります。見た目より重量があるんですよね。。ESU200はレコードラックとして使いました。ESU400はこの家では眺めているだけでした。すぐに箱根に家を購入して引っ越すのですが、そこでESU400はリビングの主役として活躍します。ESU200はアダムシルバーマンの初期の花器に花を生けて使ったらおもいっきり水漏れしてとんでもない輪ジミをつくってしまった思い出があります。

この当時何故かアニリンで赤く染色されたプライウッドのイームズに魅了されてしまいます。

 

コネクトが終了して売れ残ったEVANSの黒のLCWを引き取るのですが、コンディションもよく普通に毎日使っていました。いつどこで手放したのか記憶にないのですが、、

その後、2008年だったか2009年だったか記憶があいまいですが、アーキテクチャルポタリーの契約の為にLAに行きます。同じLAだしと思って気楽に考えイームズハウスに行くことを予定にいれていたのですが、これがなんとも遠い。やっと着いた憧れのイームズハウスは思ったよりコンパクトでした。やはりESUの大きいバージョンがイームズハウスだと確信しました。そして、残念なことにトイレを貸してくれないという事で、予定より早めに切り上げてみんなでトイレに駆け込んだのも思い出です。

時は流れて2019年。私はもう一度ヴィンテージ家具屋をやる決意をします。その時の最初の企画展がイームズ夫妻でした。1年ほどコロナ禍の中、イームズアイテムを集めまくりました。その時の自宅はレアなイームズでコーディネートしてました。

 

使ってこそ良さがわかるイームズ夫妻のプロダクト。それを改めて感じました。またやはり、オシャレなんですよね。北欧ともフレンチとも違う、僕の憧れたカリフォルニアの乾いた感じ。その魅力と憧れが詰まっているのがイームズ夫妻のプロダクト。

憧れの世界が詰まっているからなのかはわかりませんが、僕のとってのイームズ夫妻のプロダクトは人生をいつも良い方向に導いでくれます。

イームズ夫妻のヴィンテージプロダクトとショーンステューシーのファッションを同時に扱ったお店が僕の最終到着点かもしれません。

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