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ポールケアホルムに付いて
ポールケアホルムの思い出は語り尽くせないほどあります。 2002年にローレイダーを運営してた時に、となりのイケてる本屋の浜田さんにE-KOLD製という古いケアホルムに付いて教えてもらいました。そのまま店に戻り当時ハマっていたLauritzのオークションで手始めにPK-22を落札します。7,000DKK(2002年は1DKK=16円)でした。到着したPK-22は革が予想以上に経たっていて椅子のスチールの貫に座っている感覚がお尻に伝わってきました。うわ、、最悪な座り心地。それが最初のPKの印象です。そのまま就寝して朝起きるとその椅子が大変なことになっていました。なんと我が家の猫ちゃんが思いっきりガリガリして見るも無惨にしてしまったのです。 その後、綺麗に張り替えてお店に熱心に通っていた若者に販売しました。 次に手に入れたのはPK-20。 E-bayで2,000ドルで落札しました。目黒のお店に到着した箱がとんでもなく大きくて驚いたのが最初の印象です。路上駐車もOKな時代でしたので、路上で開梱作業も当たり前でした。そのPK-20もやはりフレームの座っている印象。ただ、こちらはフレームが大きかったのでそこまで鋭利な感じはしませんでした。少し破れていましたがそのまま心地よく使用していました。お店を辞める時に当時通ってくださった方にお譲りしました。今でも綺麗に使用されているようすをたまにSNSで見られることが嬉しいです。 そして我がPK人生を揺るがす出来事があります。ローレイダーを運営していた時にやってきたカメラマン(コモエスタ八重樫さんの建物についての撮影をしてる)伊東さんと出会います。伊東さんから新宿にとんでもないリサイクル屋があることを聞きます。そこには倉俣さんの家具やPKなどが沢山あるというのです。伊東さんが帰ると直ぐにお店を閉めてとりあえず新宿に向かいました。まだ当時はインターネットやグーグルで検索しても店名も出てこない時代です。電話ボックスを探して中にあるイエローページで骨董屋を検索。なんとなく宛をつけて車で近くまで向かいます。なんとなく恐る恐る店内に入り、ポールケアホルムありますか?と突然聞いてみました、そうしたたら強面の60前後の男性が『幾らで買う!』って。とりあえずうーん、200万と告げたらじゃあ300万だと。よくある骨董屋の駆け引きです。その場はとりあえず流して、モノを見せてもらいました。あるではないですか!PK-31ソファが3人掛けと2人掛け、PK-33丸スツールが2個、そして珍しいPK-64ガラステーブルがセットアップされていました。まさかデンマークでも目にしないスペシャルセットです。それが新宿に!聞けば下北沢の建築家の自邸からの出物らしく、他にもスワンチェアなどがあったようです。そのセットは由緒正しく松屋銀座で開催された最初の北欧展で購入されたようです。1962年当時はまだデンマーク家具など知る方は余程のお金持ちのみだったと思います。そのお金持ちの中でも粋な方々が購入をしたそうです。濱田庄司や柳宗悦(宗理のお父さん)などが購入したそうです。現在のPKの価値より遥かに高いそうです。 このセットですがしばらくスルーすることにしました。 そして私はお得意のLauritzで2人掛けのソファを落札します。DKK20,000(約32万)でした。綺麗に経年したそのソファは我が家のお気に入りになり長らく使用しました。これは未だに誰に売却したか記憶にありません。。。革張りのソファのクッションはフェザーが中材として使用されていました。定期的に陰干しすると程よくふわりとして気持ちよかったです。何より経年したシットリとした革が肌に当たる感触が絶妙でした。 さて、少し落ち着きまして(思い出すと興奮するので、、)。骨董屋のPKの話に戻ります。PKのソファで寛いでいると電話がなりました。なんとなんと例の骨董屋のおやじからです。他に欲しいものがあるから言い値で売るっていうのです!ヨシキタ!と交渉してささっとまとめて、気が変わらないうちに振込を済ませて、運送の手配をして。。やりました!私の堪え勝ちです!しかし、当時私は箱根に家を購入する事を決めていてゆとりがありませんでした。このソファはなるべくなら近い人に販売しようと思い福岡のorganの武末さんに話をしました。快くソファのセットを購入いただきました。 今でもたまに座ることのあるそのセット。思い出が込み上げてきます。私は丸スツールを2脚箱根の家に持っていきました。 雑誌の取材で『売らないよこれは!』なんて宣言しておいて雑誌がでるころには海外から来たディーラーに売り飛ばしてしまいました。 骨董屋のおやじも賢く、サザビーズと付き合いがあるのでその時になぜかPKバブルが来ていて、レアなガラステーブルはサザビーズに出品して良い落札結果を得ていました。 さて、私のPK熱はだいぶ覚めたのですが未だに忘れられない作品があります。 ファイルキャビネットです。このキャビネットの凜とした美しさはなんとも言えないです。私の知人がNYで売りにだしています。もし欲しい方がいましたら是非。 そして今、手元に福岡ではいや日本でナンバーワンのケアホルムを扱う方が販売したPK-9とPK-54のセットが私の手元にやってきました。同時にPK-20もやってきました。 改めて私はモノに呼ばれているなあと自画自賛して今日のブログを〆ます。
ポールケアホルムに付いて
ポールケアホルムの思い出は語り尽くせないほどあります。 2002年にローレイダーを運営してた時に、となりのイケてる本屋の浜田さんにE-KOLD製という古いケアホルムに付いて教えてもらいました。そのまま店に戻り当時ハマっていたLauritzのオークションで手始めにPK-22を落札します。7,000DKK(2002年は1DKK=16円)でした。到着したPK-22は革が予想以上に経たっていて椅子のスチールの貫に座っている感覚がお尻に伝わってきました。うわ、、最悪な座り心地。それが最初のPKの印象です。そのまま就寝して朝起きるとその椅子が大変なことになっていました。なんと我が家の猫ちゃんが思いっきりガリガリして見るも無惨にしてしまったのです。 その後、綺麗に張り替えてお店に熱心に通っていた若者に販売しました。 次に手に入れたのはPK-20。 E-bayで2,000ドルで落札しました。目黒のお店に到着した箱がとんでもなく大きくて驚いたのが最初の印象です。路上駐車もOKな時代でしたので、路上で開梱作業も当たり前でした。そのPK-20もやはりフレームの座っている印象。ただ、こちらはフレームが大きかったのでそこまで鋭利な感じはしませんでした。少し破れていましたがそのまま心地よく使用していました。お店を辞める時に当時通ってくださった方にお譲りしました。今でも綺麗に使用されているようすをたまにSNSで見られることが嬉しいです。 そして我がPK人生を揺るがす出来事があります。ローレイダーを運営していた時にやってきたカメラマン(コモエスタ八重樫さんの建物についての撮影をしてる)伊東さんと出会います。伊東さんから新宿にとんでもないリサイクル屋があることを聞きます。そこには倉俣さんの家具やPKなどが沢山あるというのです。伊東さんが帰ると直ぐにお店を閉めてとりあえず新宿に向かいました。まだ当時はインターネットやグーグルで検索しても店名も出てこない時代です。電話ボックスを探して中にあるイエローページで骨董屋を検索。なんとなく宛をつけて車で近くまで向かいます。なんとなく恐る恐る店内に入り、ポールケアホルムありますか?と突然聞いてみました、そうしたたら強面の60前後の男性が『幾らで買う!』って。とりあえずうーん、200万と告げたらじゃあ300万だと。よくある骨董屋の駆け引きです。その場はとりあえず流して、モノを見せてもらいました。あるではないですか!PK-31ソファが3人掛けと2人掛け、PK-33丸スツールが2個、そして珍しいPK-64ガラステーブルがセットアップされていました。まさかデンマークでも目にしないスペシャルセットです。それが新宿に!聞けば下北沢の建築家の自邸からの出物らしく、他にもスワンチェアなどがあったようです。そのセットは由緒正しく松屋銀座で開催された最初の北欧展で購入されたようです。1962年当時はまだデンマーク家具など知る方は余程のお金持ちのみだったと思います。そのお金持ちの中でも粋な方々が購入をしたそうです。濱田庄司や柳宗悦(宗理のお父さん)などが購入したそうです。現在のPKの価値より遥かに高いそうです。 このセットですがしばらくスルーすることにしました。 そして私はお得意のLauritzで2人掛けのソファを落札します。DKK20,000(約32万)でした。綺麗に経年したそのソファは我が家のお気に入りになり長らく使用しました。これは未だに誰に売却したか記憶にありません。。。革張りのソファのクッションはフェザーが中材として使用されていました。定期的に陰干しすると程よくふわりとして気持ちよかったです。何より経年したシットリとした革が肌に当たる感触が絶妙でした。 さて、少し落ち着きまして(思い出すと興奮するので、、)。骨董屋のPKの話に戻ります。PKのソファで寛いでいると電話がなりました。なんとなんと例の骨董屋のおやじからです。他に欲しいものがあるから言い値で売るっていうのです!ヨシキタ!と交渉してささっとまとめて、気が変わらないうちに振込を済ませて、運送の手配をして。。やりました!私の堪え勝ちです!しかし、当時私は箱根に家を購入する事を決めていてゆとりがありませんでした。このソファはなるべくなら近い人に販売しようと思い福岡のorganの武末さんに話をしました。快くソファのセットを購入いただきました。 今でもたまに座ることのあるそのセット。思い出が込み上げてきます。私は丸スツールを2脚箱根の家に持っていきました。 雑誌の取材で『売らないよこれは!』なんて宣言しておいて雑誌がでるころには海外から来たディーラーに売り飛ばしてしまいました。 骨董屋のおやじも賢く、サザビーズと付き合いがあるのでその時になぜかPKバブルが来ていて、レアなガラステーブルはサザビーズに出品して良い落札結果を得ていました。 さて、私のPK熱はだいぶ覚めたのですが未だに忘れられない作品があります。 ファイルキャビネットです。このキャビネットの凜とした美しさはなんとも言えないです。私の知人がNYで売りにだしています。もし欲しい方がいましたら是非。 そして今、手元に福岡ではいや日本でナンバーワンのケアホルムを扱う方が販売したPK-9とPK-54のセットが私の手元にやってきました。同時にPK-20もやってきました。 改めて私はモノに呼ばれているなあと自画自賛して今日のブログを〆ます。
イームズ夫妻のプロダクト
イームズ夫妻が世に送り出したモノを語り出したらキリがない。それ程、私の人生とは長い付き合いになります。 最初の出会いは赤いナウガハイドが張られた日本規格のサイドシェル。調布の古いマンションで使われていない椅子を譲り受けました。目黒通りが花開く少し前の事だったと思います。 1990年後半からローレイダーを開くまで私はリサイクル屋周りを生業とします。そこで多くのイームズ夫妻のデザインと出会います。たしか、記憶が定かなら2000年問題とやらで外資のオフィスが一旦日本を離れるので、大量の渡来品が世に放出されていました。アルミナムチェアを100脚単位で購入したりしました。肘なしが4,000円、肘ありが8,000円とか信じられない時代です。ヤフオクで50,000円でバンバン売れた時代です。その売上で私はローレイダーをオープンします。 ローレイダーでは捻くれ者の私はイームズブームに乗っかる事なく、チャーナーチェアや北欧の椅子を扱うのでこの頃はイームズはスルーでした。 私にもう一度、イームズ夫妻の素晴らしさを教えてくれたのは目黒美術館で2005年に開催された 『チャールズ&レイ・イームズ ― 創造の遺産』を見てからです。 この展示会はとんでもない展示会でほぼ全てのプロダクトから試作品、映像作品まで余す事なく展示されていました。その中で私はレイが使っていたESU400に虜になりました。黒いベースなんてあるんだ、引き締まってとてつもなくカッコよく見えたそのESUは今でも私のベスト1のヴィンテージ家具だと思います。2時間位の滞在を会期中に何度したか忘れてしまいましたが、通い詰めました。 運命はやって来ました。会社を設立するにあたり銀行から融資が出ました。その翌日に行われたRAGOで私は2本のESUを落札します。後にコネクトで販売をしてしまうのですが、一番後悔した商品かもしれません。 酒匂川沿いの家でまず使います。2階にあった我が家に引き出しやディンプルウッドの扉を外して一人で抱えて運んだ思い出があります。見た目より重量があるんですよね。。ESU200はレコードラックとして使いました。ESU400はこの家では眺めているだけでした。すぐに箱根に家を購入して引っ越すのですが、そこでESU400はリビングの主役として活躍します。ESU200はアダムシルバーマンの初期の花器に花を生けて使ったらおもいっきり水漏れしてとんでもない輪ジミをつくってしまった思い出があります。 この当時何故かアニリンで赤く染色されたプライウッドのイームズに魅了されてしまいます。 コネクトが終了して売れ残ったEVANSの黒のLCWを引き取るのですが、コンディションもよく普通に毎日使っていました。いつどこで手放したのか記憶にないのですが、、 その後、2008年だったか2009年だったか記憶があいまいですが、アーキテクチャルポタリーの契約の為にLAに行きます。同じLAだしと思って気楽に考えイームズハウスに行くことを予定にいれていたのですが、これがなんとも遠い。やっと着いた憧れのイームズハウスは思ったよりコンパクトでした。やはりESUの大きいバージョンがイームズハウスだと確信しました。そして、残念なことにトイレを貸してくれないという事で、予定より早めに切り上げてみんなでトイレに駆け込んだのも思い出です。 時は流れて2019年。私はもう一度ヴィンテージ家具屋をやる決意をします。その時の最初の企画展がイームズ夫妻でした。1年ほどコロナ禍の中、イームズアイテムを集めまくりました。その時の自宅はレアなイームズでコーディネートしてました。 使ってこそ良さがわかるイームズ夫妻のプロダクト。それを改めて感じました。またやはり、オシャレなんですよね。北欧ともフレンチとも違う、僕の憧れたカリフォルニアの乾いた感じ。その魅力と憧れが詰まっているのがイームズ夫妻のプロダクト。 憧れの世界が詰まっているからなのかはわかりませんが、僕のとってのイームズ夫妻のプロダクトは人生をいつも良い方向に導いでくれます。 イームズ夫妻のヴィンテージプロダクトとショーンステューシーのファッションを同時に扱ったお店が僕の最終到着点かもしれません。
イームズ夫妻のプロダクト
イームズ夫妻が世に送り出したモノを語り出したらキリがない。それ程、私の人生とは長い付き合いになります。 最初の出会いは赤いナウガハイドが張られた日本規格のサイドシェル。調布の古いマンションで使われていない椅子を譲り受けました。目黒通りが花開く少し前の事だったと思います。 1990年後半からローレイダーを開くまで私はリサイクル屋周りを生業とします。そこで多くのイームズ夫妻のデザインと出会います。たしか、記憶が定かなら2000年問題とやらで外資のオフィスが一旦日本を離れるので、大量の渡来品が世に放出されていました。アルミナムチェアを100脚単位で購入したりしました。肘なしが4,000円、肘ありが8,000円とか信じられない時代です。ヤフオクで50,000円でバンバン売れた時代です。その売上で私はローレイダーをオープンします。 ローレイダーでは捻くれ者の私はイームズブームに乗っかる事なく、チャーナーチェアや北欧の椅子を扱うのでこの頃はイームズはスルーでした。 私にもう一度、イームズ夫妻の素晴らしさを教えてくれたのは目黒美術館で2005年に開催された 『チャールズ&レイ・イームズ ― 創造の遺産』を見てからです。 この展示会はとんでもない展示会でほぼ全てのプロダクトから試作品、映像作品まで余す事なく展示されていました。その中で私はレイが使っていたESU400に虜になりました。黒いベースなんてあるんだ、引き締まってとてつもなくカッコよく見えたそのESUは今でも私のベスト1のヴィンテージ家具だと思います。2時間位の滞在を会期中に何度したか忘れてしまいましたが、通い詰めました。 運命はやって来ました。会社を設立するにあたり銀行から融資が出ました。その翌日に行われたRAGOで私は2本のESUを落札します。後にコネクトで販売をしてしまうのですが、一番後悔した商品かもしれません。 酒匂川沿いの家でまず使います。2階にあった我が家に引き出しやディンプルウッドの扉を外して一人で抱えて運んだ思い出があります。見た目より重量があるんですよね。。ESU200はレコードラックとして使いました。ESU400はこの家では眺めているだけでした。すぐに箱根に家を購入して引っ越すのですが、そこでESU400はリビングの主役として活躍します。ESU200はアダムシルバーマンの初期の花器に花を生けて使ったらおもいっきり水漏れしてとんでもない輪ジミをつくってしまった思い出があります。 この当時何故かアニリンで赤く染色されたプライウッドのイームズに魅了されてしまいます。 コネクトが終了して売れ残ったEVANSの黒のLCWを引き取るのですが、コンディションもよく普通に毎日使っていました。いつどこで手放したのか記憶にないのですが、、 その後、2008年だったか2009年だったか記憶があいまいですが、アーキテクチャルポタリーの契約の為にLAに行きます。同じLAだしと思って気楽に考えイームズハウスに行くことを予定にいれていたのですが、これがなんとも遠い。やっと着いた憧れのイームズハウスは思ったよりコンパクトでした。やはりESUの大きいバージョンがイームズハウスだと確信しました。そして、残念なことにトイレを貸してくれないという事で、予定より早めに切り上げてみんなでトイレに駆け込んだのも思い出です。 時は流れて2019年。私はもう一度ヴィンテージ家具屋をやる決意をします。その時の最初の企画展がイームズ夫妻でした。1年ほどコロナ禍の中、イームズアイテムを集めまくりました。その時の自宅はレアなイームズでコーディネートしてました。 使ってこそ良さがわかるイームズ夫妻のプロダクト。それを改めて感じました。またやはり、オシャレなんですよね。北欧ともフレンチとも違う、僕の憧れたカリフォルニアの乾いた感じ。その魅力と憧れが詰まっているのがイームズ夫妻のプロダクト。 憧れの世界が詰まっているからなのかはわかりませんが、僕のとってのイームズ夫妻のプロダクトは人生をいつも良い方向に導いでくれます。 イームズ夫妻のヴィンテージプロダクトとショーンステューシーのファッションを同時に扱ったお店が僕の最終到着点かもしれません。
George Nelson
私がジョージネルソンを知ったのはイームズブーム真っ盛りの目黒通りでした。明らかにオーラの違うシェルチェアがモダンエイジギャラリーに展示されていました。後にそれがSwagレッグチェア MAAと知ることになるのですが、当時の私にはとんでもない存在感だったことを思い出します。のちにジョージネルソンに付いて深く知るきっかけとなったのがPlay Mountainから出たこの書籍。柳本さんがグラフィックデザイン、たしか土田さんが文章を書いていたと思います。(出版された2002年に私は目黒通りから少し外れた場所にローレイダーをオープンします。)私はジョージネルソンはアソシエイツ(チーム)で活動するデザイン集団のボスだと知ることになります。要するに彼のチームでデザインされたモノやコトはすべてジョージネルソンアソシエイツの名前の元で発売、管理されます。紹介の書籍でも書かれていますが、日本人で当時ネルソンアソシエイツに参加した方がいます。山内陸平さんという方で、山内さんのコラムで当時の事が詳しく書いてあります。(必読!) ジョージネルソンアソシエイツには優秀なデザイナーが多く在籍し、アービング・ハーパーやジョン・パイル、チャールズ・ポロックなどがいました。ネルソンアソシエイツの公式のwebがあります。こちらにどのデザイナーが担当したかすべて記載があります。 そしてジョージネルソンの1番の功績は自身がデザインディレクターを務めていたハーマンミラーにイームズ夫妻、イサム・ノグチを紹介したことだと思います。 さてここからは私が実際に使用したことのあるジョージネルソンアソシエイツの作品に付いて書きます。デジタルデーターの写真が残ってなくて、フィルムで撮影した一時期の写真しか見つからなかったのですが、ご紹介します。 一番最初はハーフネルソンランプ(参考画像)をローレーダーで仕入れます。たしかe-bayで購入しました。なんとなく安かったのですが、届いたものはスイッチのパーツが欠品していました。 次に購入したネルソンはSwag leg desk。実はこれは日本規格の脚が少し短いバージョンです。ハーマンミラーを最初に日本に紹介した方から譲っていただきました。わかりにくいですが、仕切りのカラーが珍しいカラーリングでした。当時のパートナーがJH-701と合わせてました。(脚が短いのでベストマッチ) 同じ時期に手に入れたのが珍しいベンチ。籐のベンチですが、当時から高くてe-bayで1900ドル近くしたのを覚えています。ただ当時フィンユールを商売にしていたので1900ドルが安く感じたのは恐ろしいですよね。このベンチはすごく好きでしたが、コネクトオークションで売却してしまいました。 酒匂川沿いのマンションではSwag leg desk、藤のベンチ、Thin edgeのキャビネットを使っていました。これはFAX電話の台にしていました。 同じ時期にSwag leg MAAチェアを2脚同時購入します。モダンエイジギャラリーでオーラを放っていた椅子を遂に手に入れました。実は同じ時期にsling sofa(参考web)を手に入れます。実はMAAとこのソファ、163センチの私には大きすぎて脚がつかないという理由で倉庫から出さずに売却しました。その後、原宿の坂倉のマンションでカンガルーチェア(落札したその物)を購入するのですが、これも大きすぎて使えないというオチがつきました。 箱根の家のリビングのセットがページ右のカテナリーチェアとテーブル。ポールケアホルムを彷彿させるスタイルで、前記のsling sofaはこれに合わせる予定でした。 以上が私のネルソンアソシエイツの実体験です。どれもデカイなというのが印象です。時計も何個か使ったのですが、記憶が曖昧です。あと日本規格の大きなデスクなども何度もリサイクル屋から仕入れてますが、重役感凄すぎてあまり好きではありませんでした。この重役感あるネルソンシリーズは天童木工が真似をして同じような家具をたくさんリリースしていたと思います。...
George Nelson
私がジョージネルソンを知ったのはイームズブーム真っ盛りの目黒通りでした。明らかにオーラの違うシェルチェアがモダンエイジギャラリーに展示されていました。後にそれがSwagレッグチェア MAAと知ることになるのですが、当時の私にはとんでもない存在感だったことを思い出します。のちにジョージネルソンに付いて深く知るきっかけとなったのがPlay Mountainから出たこの書籍。柳本さんがグラフィックデザイン、たしか土田さんが文章を書いていたと思います。(出版された2002年に私は目黒通りから少し外れた場所にローレイダーをオープンします。)私はジョージネルソンはアソシエイツ(チーム)で活動するデザイン集団のボスだと知ることになります。要するに彼のチームでデザインされたモノやコトはすべてジョージネルソンアソシエイツの名前の元で発売、管理されます。紹介の書籍でも書かれていますが、日本人で当時ネルソンアソシエイツに参加した方がいます。山内陸平さんという方で、山内さんのコラムで当時の事が詳しく書いてあります。(必読!) ジョージネルソンアソシエイツには優秀なデザイナーが多く在籍し、アービング・ハーパーやジョン・パイル、チャールズ・ポロックなどがいました。ネルソンアソシエイツの公式のwebがあります。こちらにどのデザイナーが担当したかすべて記載があります。 そしてジョージネルソンの1番の功績は自身がデザインディレクターを務めていたハーマンミラーにイームズ夫妻、イサム・ノグチを紹介したことだと思います。 さてここからは私が実際に使用したことのあるジョージネルソンアソシエイツの作品に付いて書きます。デジタルデーターの写真が残ってなくて、フィルムで撮影した一時期の写真しか見つからなかったのですが、ご紹介します。 一番最初はハーフネルソンランプ(参考画像)をローレーダーで仕入れます。たしかe-bayで購入しました。なんとなく安かったのですが、届いたものはスイッチのパーツが欠品していました。 次に購入したネルソンはSwag leg desk。実はこれは日本規格の脚が少し短いバージョンです。ハーマンミラーを最初に日本に紹介した方から譲っていただきました。わかりにくいですが、仕切りのカラーが珍しいカラーリングでした。当時のパートナーがJH-701と合わせてました。(脚が短いのでベストマッチ) 同じ時期に手に入れたのが珍しいベンチ。籐のベンチですが、当時から高くてe-bayで1900ドル近くしたのを覚えています。ただ当時フィンユールを商売にしていたので1900ドルが安く感じたのは恐ろしいですよね。このベンチはすごく好きでしたが、コネクトオークションで売却してしまいました。 酒匂川沿いのマンションではSwag leg desk、藤のベンチ、Thin edgeのキャビネットを使っていました。これはFAX電話の台にしていました。 同じ時期にSwag leg MAAチェアを2脚同時購入します。モダンエイジギャラリーでオーラを放っていた椅子を遂に手に入れました。実は同じ時期にsling sofa(参考web)を手に入れます。実はMAAとこのソファ、163センチの私には大きすぎて脚がつかないという理由で倉庫から出さずに売却しました。その後、原宿の坂倉のマンションでカンガルーチェア(落札したその物)を購入するのですが、これも大きすぎて使えないというオチがつきました。 箱根の家のリビングのセットがページ右のカテナリーチェアとテーブル。ポールケアホルムを彷彿させるスタイルで、前記のsling sofaはこれに合わせる予定でした。 以上が私のネルソンアソシエイツの実体験です。どれもデカイなというのが印象です。時計も何個か使ったのですが、記憶が曖昧です。あと日本規格の大きなデスクなども何度もリサイクル屋から仕入れてますが、重役感凄すぎてあまり好きではありませんでした。この重役感あるネルソンシリーズは天童木工が真似をして同じような家具をたくさんリリースしていたと思います。...
日本で購入できる曲木のアームチェアを比べてみました。
画像左からTON No.30 Gebrüder Thonet Vienna GmbH WIENER STUHLTHONET no.209 では、比べてみます。基本的にモデルは塗装仕上げの座面がCane(籐)TON No.30 Stool inc. ¥119,0001900年代初期より製品化されたオリジナルのプロポーションを持ち、尚且つ当時と同じ工場で現在も作られている Gebrüder Thonet Vienna GmbH WIENER STUHL インターオフィス¥168,3001948年にミヒャエルの親族がオーストリアのウィーンで始めた比較的新しいファミリー会社 曲木の椅子はどこかプロポーションがTONとTHONETの中間のようなデザイン。ウィーンチェアと呼ばれる THONET no.209 Yamagiwa¥220,000唯一ファミリー会社でTHONETを名乗れる会社no.209と呼ばれる曲木の椅子は1920年代にデンマーク人デザイナーポールヘニングセンによりリデザインされているこの3種が今日本で買える正規の椅子です。他の韓国製や中国製は偽物です。デザインオリジナルの形をしている事がTONの強みです。ヘニングセンデザインの椅子が欲しい方はTHONETが良いかも知れません。歴史間違いなくTONの歴史がやはり古く今も昔も同じ工場で作られています。
日本で購入できる曲木のアームチェアを比べてみました。
画像左からTON No.30 Gebrüder Thonet Vienna GmbH WIENER STUHLTHONET no.209 では、比べてみます。基本的にモデルは塗装仕上げの座面がCane(籐)TON No.30 Stool inc. ¥119,0001900年代初期より製品化されたオリジナルのプロポーションを持ち、尚且つ当時と同じ工場で現在も作られている Gebrüder Thonet Vienna GmbH WIENER STUHL インターオフィス¥168,3001948年にミヒャエルの親族がオーストリアのウィーンで始めた比較的新しいファミリー会社 曲木の椅子はどこかプロポーションがTONとTHONETの中間のようなデザイン。ウィーンチェアと呼ばれる THONET no.209 Yamagiwa¥220,000唯一ファミリー会社でTHONETを名乗れる会社no.209と呼ばれる曲木の椅子は1920年代にデンマーク人デザイナーポールヘニングセンによりリデザインされているこの3種が今日本で買える正規の椅子です。他の韓国製や中国製は偽物です。デザインオリジナルの形をしている事がTONの強みです。ヘニングセンデザインの椅子が欲しい方はTHONETが良いかも知れません。歴史間違いなくTONの歴史がやはり古く今も昔も同じ工場で作られています。